※「lunatic moon」サンプル
※序章のみ
エトルリアと雪花石膏(アラバスター)の町ヴォルテッラ──エーラの谷とチェチナの谷に挟まれた台地の上にあるこの町は、エトルリアの優れた文化と中世の佇まいを残している。豊富な資源と緑に覆われた丘陵地帯は見晴らしが良く、ここで暮らす少年達の心を伸びやかに育んでいた。
「ユウ、そろそろ戻らないと夕食の支度に遅れるさ」
赤い髪と翡翠の瞳を持つ十一歳の少年ラビは、城塞に沿う森の中で黒髪黒瞳の少年神田ユウに声を掛けた。
同い年の神田は故国日本から持ち込んだ家宝の名刀『六幻』を振っており、剣の稽古に余念が無い。
「もうそんな時間か?」
「うん、あと三分くらいでここを出ると、自由時間終了五分前に着いてちょうどいいさ」
「時計も持ってないのに、相変わらず細かいな」
「視太陽時を計測して、体内時計にもお伺いを立てつつ算出してるんさ。ほら見て、即製の日時計」
ラビは聡明な二つの瞳をキラキラと輝かせながら、地面に描いたサークルと雪花石膏(アラバスター)製の三角の石板を指し示す。
ポニーテールにした長い黒髪を揺らしながら近付いた少年神田は、彼の手元をじっと覗き込んだ。
「よくわからないぜ」
サークルや石板にはラビの字で何やら複雑な文字や記号が書き込まれていたが、天文学にも地学にも興味の無い神田にはさっぱり理解できなかった。
そんな神田に懇切丁寧に説明しようとしたラビは、時間が無いことを思い出してすぐに取りやめ、日時計を片付ける。
「そうこうしてるうちに一分経ったさ。遅れると院長先生がうるさいから、早く行かないと。五分前行動五分前行動っていつもみたいに繰り返し言われるさ」
「あのバアさん厳しいからな。また罰を食らうのは御免だ」
神田はラビの傍らに置いていた細長い袋に六幻を仕舞い、紺色の手拭いで汗を拭った。袋も手拭いも故国を去る時に母親が縫ってくれたもので、零落した武家にとっては贅沢な銀糸を使った、蓮の刺繍が施されていた。
「床磨き一週間は厳しいよなー……腰はくたくたになるし、なんかミルクが嫌いになったさ。飲もうとしてカップに顔を近付けると、床の臭いを思い出しちゃって……」
「モップを使えるだけマシだろ。けど床をミルクで磨くなんて聞いたことが無い。日本では固く絞った雑巾で腰を入れて磨くんだ。もちろん水でな」
「それはまた大変そうさ……」
「足腰の鍛練になるから大変とは思わなかった。ただこっちの建物と違って、日本の廊下は外に面してる場合が多いんだ。だから冬場は寒くて指先の感覚が無くなったな」
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